「自分が信じて本気で目指したらきっと叶うはず」トライアスロン日本代表・ニナー賢治がパリ五輪へかける覚悟とそれを支える食生活
■トライアスロンとの出会い
――ニナーさんのトライアスロンとの出会いを教えてください。
子供の頃から、テニス、サッカー、それから器械体操をやっていました。オーストラリアでは13歳から17歳がハイスクールなんですが、当時の先生が「トライアスロンに向いてるんじゃないの」とアドバイスしてくれたんで、とりあえず、1回レースに出てみました。
ただ、その頃の自分の体が細く小さかった。一般的な西洋人はもっと体が大きいですし、トライアスロンの選手を見ても、自分のようにガリガリの細い選手があまりいないので、成功できるとは思えなかったこともあり、そのときは本格的にやろうとは考えませんでした。
――18歳の時に考えが変わったんですね。
そうですね。僕はプールで泳ぐのはそんなに好きでも得意でもなかったんですけど、海や自然の中で泳ぐことが大好きだった。トライアスロンはそれができますよね。種目もスイム・バイク・ランの3つがあって、トレーニングもレースも世界で最も美しい場所でできます。例えば、フランスのピネレー山脈、オーストラリアのコースト沿いであったり。そこがとても魅力的なスポーツだと感じたんです。
数学系の修士号を持ってるんですけど、頭の中でランニングのペースを計算しながらタイムを生み出すことが面白かった。2種目ともそういう要素があり、複合的に絡み合ってくるので、そこにも魅力を感じて、18歳ぐらいから本格的に始めるようになりました。
■夢だった五輪へむけて
――トライアスロンは「鉄人レース」とも言われますが、苦しさより楽しさの方が圧倒的に大きかったんですか?
「大変だ」という感覚は僕にはなくて、楽しいし、面白いですよ。もともと持久系のスポーツにすごく興味があって、マラソンや駅伝を見るのも大好きなんで。それに加えて「チャレンジする」ということを表現できる。そういうものを見つけられたという充実感が強かったです。
――競技に携わるうえで苦労したことはありますか?
3種目あるので、バランスを取ることが難しいポイントですね。一例を挙げると、練習をどうするかというテーマがあります。ランニングだけにフォーカスするとスイミングとバイクのパフォーマンスが落ちたりとか、バイクとランだけ頑張ってもスイムは伸びなかったりする。バランスをうまく取りながらトレーニングする苦労はあります。ただ、結局はそのチャレンジする面白さがあるので、その面白さが勝っています。
大会の傾向が毎年のように変化するのも難しい部分ですね。スイムから早く上がってきた選手10人くらいが一気にバイクで逃げてしまい、そのままランニングに入って1〜10位まで独占する時もあれば、上位グループに続くグループに強力なサイクリストがいて、バイクで追いつき、ランで抜け出すといったこともあります。つまり、スイムが遅くて、ランが物凄く速い選手が逆転優勝するといったケースが最近、よく見られます。
レース展開が複雑になるのも、誰が強いかによるところが大。強い選手次第でレース全体が影響を受ける側面があるので、そこは非常に難しいと思います。
――戦況を読む力と対応力が問われますね。
そうなんです。ただ、僕がラッキーだと思うのは、1種目だけの競技だと伸びしろの限界を感じるかもしれませんけど、トライアスロンは3種目あるんで、改善できることが沢山ある。つねに向上している点を何かしら体感しながらやっていけるので、そこがすごくいいところですね。
――基本的なトレーニングの流れはどのようになっていますか?
いま僕らはノルウェーのメソッドで練習しています。東京五輪でのノルウェーのクリスティアン・ブルメンフェルト選手が金メダル取ってるんですけど、そこのスポーツサイエンティスト兼コーチの方がトレーニングのシステムを持っていて、それを元にスケジュールやメニューを組んでいます。
「強度コントロール」と言っているんですけど、そのやり方を僕らも一緒に勉強してきたので、それをベースにしながら、少しずつ自分たちのやり方にアレンジしていき、現在に至っています。
ノルウェー式メソッドと共に特に重視しているのは、技術の向上です。フィジカルばかりやっていても結局、ケガにつながったりとか、疲労蓄積につながってしまいがちですけど、技術を磨くことはケガや疲労のリスクを下げ、自分の能力を引き上げることにつながる。僕にはすごく合っていました。
■日本代表として
――2018年に来日されました。きっかけは?
オーストラリアにいた頃もコーチのもとで練習していたんですが、まずは素質があるかどうかがベースで、パワーやスピードを徹底的に強化するようなスタイルでした。僕もそれをやってきて、U-23世代まではオーストラリア代表まで行ったんですけど、その後、伸び悩み、エリートとしては難しい状況にもなりつつありました。
僕にはずっと五輪に出たいという夢がありましたから、母親の国である日本に行くことを考え始め、実際に赴く決断をした。それによって練習スタイルは様変わりしました。
――現在指導を受けている村上コーチとはずっと一緒に?
2018年の来日当時はパトリック・ケリーというヘッドコーチがいて、彼がノルウェー方式を採用しました。村上さんはアシスタントコーチでしたが、そのときから一緒です。
――来日後の変化について、もう少し詳しくお話しいただけますか?
日本に来て、トレーニングはもちろんのこと、メンタル面が大きく変わりました。「自分は何者なのか」を自問自答しましたし、自分なりに理解しようと努力したんです。
僕は生まれてから20代になるまで西洋的な考え方の中で生きてきましたけど、日本の文化や習慣に触れて、思うところが沢山ありました。内村鑑三さんの「代表的日本人」を読んだりして、日本人がどんな民族なのか、どういう考え方をするのかをより深く理解し、自分自身が確立されていった。すごく哲学的な話ですけど、そこがすごく変わったところです。
――2018年から東京五輪まで3年ありましたが、ご自身はどう成長されましたか?
オーストラリア時代から五輪選手になりたいという夢は持っていました。でもそれはあくまで夢で、現実ではなかった。でも日本に来てからは「これは夢ではなくて現実の目標だ」と思えるようになったんです。
日本のライバルの実力を見て「自分は五輪代表に極めて近いところにいる」と思えたし、集中して練習できる環境やコーチもいたので、全てが整っていました。そういう中で、具体的な目標として東京五輪を捉えられるようになった。それが大きかったと思います。
――日本国籍取得にも踏み切られました。
はい。それは僕にとってすごく大きなことであり、強い気持ちが生まれる原動力になりました。「自分の国で開催される五輪に出る」というのは極めて意義の深いこと。それを絶対に成し遂げるんだという強い意欲も湧いてきました。
――その東京五輪は新型コロナウイルス感染拡大によって1年遅れて開催されました。その1年間があって、ニナーさんの出場がかなったんですよね。
そうですね。ただ、コロナの間、世界は見通しの利かない不明瞭な状態に陥り、行きたい国に行けない状況になりました。生活面でも多くの制限や不便を強いられた。自分たちも困難の伴う中でトレーニングをすることになりました。
それでも僕自身は大会が1年遅れたことでワールドクラスまで強くなれた。日本国籍も取得できました。それに関しては、非常にラッキーに働いたなというふうに思っています。
――五輪出場を決めたのは、2021年5月に宮崎で行われたJTU男子スーパースプリント特別大会)のレースでした。
この大会は普通のレースではなくて、五輪基準をクリアした10人程度しか出ない最終選考だったんです。距離は各種目とも通常より短くて、300mのスイム・7.2㎞のバイク・2kmのランというコース。1本目は個人タイムトライアルで、2本目が全員で一斉に出て順位を競う形式でした。
両方が1位だったら文句なしで出場権を得られるんですけど、1本目が1位・1本目が2位、あるいは1・4位とか順位が離れると、誰を出すべきかと議論が分かれてしまいます。一番いいのは個人タイムトライアルでベストを出して集団で勝ち切ること。そう考えてレースを進め、1本目をトップで終え、2本目の集団レースに突入。安定してスイム・バイクと進んだ時にアクシデントが起きたんです。
――どんなアクシデントだったんですか?
足がつってしまって、出足が遅れたんです。僕のレースを見守っていた村上コーチは「賢治がいない」と顔面蒼白になったと言いますが、直線の折り返しのあたりで50mくらいはトップから遅れていました。
2kmのレースで50mの遅れというのは、トップ選手の集まる中では致命的。10秒くらいの差が開いていましたからね。でも僕は決して諦めませんでした。
「体動け、動け」と言い聞かせ、「絶対に勝つんだ」という強い気持ちを持ち続けたら、だんだん体が反応してくれた。そこから神がかり的なランニングを見せることができ、最後に抜き切ってトップでフィニッシュできた。
僕は通常、1km・2分55秒くらいのペースで走りますけど、あの時は最後の方は2分35〜40秒くらいで走っていたんじゃないかな。それは自分の競技生活の中で過去にないことでした。体と心が完全に一致して力を出せた。そういう意味で大好きなレースだし、印象的なレースでしたね。
――ミラクルレースで勝って、迎えた本番。無観客開催となった東京五輪の中でトライアスロンだけは沿道に多くの人が集まり、五輪らしい雰囲気の中で行われました。
本当にそうですね。他競技はほぼ無観客という状況の中で、警察が寛容だったのかどうか分からないですけど、自分たちは多くの人が見守る中で戦わせていただけた。それは競技者として本当に幸せなことでした。
特に混合リレーで自分がレースをしてる間、多くの応援や後押していただき、幸せなレースを経験ができました。
やっぱりこの競技をもっと多くの人に見てほしい。それだけの魅力のあるスポーツだと僕は強く思っています。
■東京五輪を経て目指すもの
――男子個人は14位、混合リレーは13位でした。パリ五輪に向けて改善していきますか?
「男子個人14位の結果に関して言うと、その時のベストパフォーマンスを出せたと思っています。その年に回ったワールドツアーは18位が最高位だったんで、五輪が一番好結果だったんです。
東京五輪の後も自分はさらに強くなっていて、2022年は世界ランキング15位で終えることができました。2021年が43位だったことを考えると、大きく成長できたと思う。プロのオリンピアンとか、世界トップクラスしか出れないスーパーリーグというプロリーグがあるんですけど、そこでも日本人として初めて表彰台に上っています。よく戦ったシーズンだったと思っています。
パリ五輪まであと1年3カ月ありますけど、今も伸び続けているという自信がありますし、どんどん向上している実感も持てています。世界トップ20位くらいになってくると、どこを直せばいいのか、どうしたらもう少し速くなるかを見つけるのが難しい段階になってくるんですけど、そこまで完成されつつある状態です。
ただ、残された時間に向上する部分を見出せない選手は今の水準を保つことができても、向上してはいけない。僕らはパリまでにさらに向上できると確信していますし、データにも表れている。それを強く信じています。
本当にメダルが取れるかは当日の問題。結果は分かりませんが、メダルを取れるだけのパフォーマンスは出すことができるだろうと考えてます。
――1年で世界ランキング43位から15位に上がったというのはすごいことですね。
そうですね。2022年は後半は体調不良で苦しみましたから、今年はもっと行きますよ。今はコンディションもいいので、期待していただいていいと思います。
――ニナーさんはパリ五輪に全てを賭けているんですね。
はい。僕はパリを最後に現役引退すると決めて取り組んでいます。
トライアスロンは30歳前後が一番強いスポーツ。持久系の競技なんで、その先も続けた場合、もっといいパフォーマンスが出せるかもしれませんし、タイムもよくなる可能性もあります。ただ、自分の感覚やこれまで歩んできた過程から考えると、4年サイクルとして見た場合には、パリ五輪が最大のピーク。その4年後により強い状態になるとは考えられないんです。それはパリを最後に退こうと思うっている最大の理由です。
もう1つ言うと、トライアスロンというスポーツは多くの人のサポートを受けなければ成り立たないんです。それは金銭面だけでなく、物質面も含めてですね。いろんなことを多くの人にお願いして、最高の環境を作っていただいているので、これ以上を求めるのが難しいと僕は考えています。
周りの環境や自分のフィジカル・メンタルなど全てを考えた場合、今は一番の旬だと確信しています。なので、そこで最高の結果を残して、引退するつもりです。
――数学の修士号を持っているニナーさんらしい明確なビジョンですね。
メダルを取れれば、トライアスロンが多くの人により注目されますし、メディアに取り上げられる機会も増えると思います。メダル獲得は僕らにとって悲願なんです。
実は日本のトライアスロン人口は公式に30万人。、登録していない人を含めると80万〜150万もいると言われています。想像以上に多いんですけど、表に出る機会はまだまだ少ないと思います。だからこそ、メダルを取ってもっとメジャーにしていきたい。そう村上コーチともよく話しています。そうなるように僕自身、全力で努力していきます。
■食生活
――ニナーさんはキノコが大好きだと伺いました。
はい!毎日食べています。
――どんなキノコ料理を食べているのですか?
麻婆豆腐だったり、味噌汁に入れたり、炒め物だったりですね。
――好きなキノコの種類は?
マッシュルームやエリンギ、シメジなど、何でも好きですよ。オーストラリアにはエリンギはあまりなくて、スーパーに売っているのはシイタケとかフィールドマッシュルームですね。フィールドマッシュルームというのは大きなマッシュルームをイメージしていただければと思います。
日本人の母が味噌汁や日本食を日常的に作っていたので、そこに入れて子供の頃から食べていました。
――料理は自分で作っている?
はい、結構自分で作っています。僕の家は母だけではなく、父も料理をするんで、僕も以前からやっていました。
ただ、そんなに時間をかけたくないので、フライパンでサッと焼くような簡単なメニューが多いです。そのうえで疲労回復とエネルギーを十分に摂取できるものがいいですね。
――キノコには腸内環境を整える効果もありますが、そこにもフォーカスされていらっしゃいますか?
そのことも知っています。体調・腸内環境を整えることはアスリートにとってすごく大事なので、それも意識はしています。そもそも風味や食感が大好きなんで、毎日、あらゆる料理に入れて、味わっています。ある意味、ルーティンですね(笑)。
――トライアスロンは消耗が非常に激しいスポーツですが、レース前後に意識していることはありますか?
トライアスロンは多くのカロリーを消費するスポーツなので、炭水化物を摂取することが多くなるんですけど、炭水化物だけに偏るのはよくないですし、栄養のバランスや必要カロリーを考えつつ、摂取しています。正確な栄養に対するストラテジー(戦略)を持っていなければ、いいパフォーマンスを発揮することはできませんからね。
実は昨年、ノロウイルスにかかり、その後は腸内フローラの環境が悪化して、レースの結果も出なくなり、トレーニング自体もうまくできない状態に陥りました。そういう経験があるので、やはり腸内環境を整えることは大事。キノコはそれをコントロールしてくれる1つかなと。そういう意味でもキーになる食材なのは間違いありません。
――最後にジュニアアスリートへのアドバイスをお願いします。
トライアスロンに関して言うと、僕は本当に偉大なスポーツだと思っています。日本ではまだそれほど有名ではないので、もっとメジャーなってほしいんですけど、この競技は何歳からでもできます。小学生でも短い距離のトライアスロンがありますし、一度やれば必ず好きになると思うので、ぜひトライしてみてもらいたいです。
そのうえで、夢があるんだったら、それを絶対に諦めてはいけない。他人は「ムリだ」と言うかもしれないけれども、自分が信じて本気で目指したらきっと叶うはず。僕はそう思っていますし、今も信じて前を向き続けています。
ニナー賢治/になーけんじ
1993年5月26日生まれ、175cm・67㎏
NTT東日本・NTT西日本所属、山梨県
カーティン大(豪州)ー西オーストラリア大(同)ーNTT東日本・NTT西日本
93年、日本人の母、オーストラリア人の父の間にパースで生まれ、幼少期はテニス、サッカー、器械体操など複数スポーツに取り組む。トライアスロンと出会ったのは13歳の時。18歳から本格的に競技生活をスタートさせ、U-23まではオーストラリア代表として活動した。
25歳の時に日本行きを決断。2018年12月から日本トライアスロン連合(JTU)所属としてレースに参戦。JTU強化指定選手としてワールドカップ、世界シリーズを中心にレースに出場。2020年日本選手権で初出場初優勝を飾った。
2021年4月1日付けで日本国籍を取得。2021年夏の東京五輪出場権を獲得し、男子個人で14位、混合リレーで13位に。現在は2024年パリ五輪でのメダル獲得を目指し、競技人生の全てを賭けてトライアスロンに力を注いでいる。